しないという決断


まず、日曜日について。午前中は、バレーボールの練習。午後はまず来週の寮内ボーリング大会の景品購入。今回は健康をテーマに、体脂肪計(香取君がCMしていたやつ)、低周波治療器などを買いました。その後、バレー部の先輩宅にて焼き肉♪野球(阪神vsヤクルト)が延長で10回くらいになった頃まで飲んでました。話題はバレーボールが多いですけど、こちらはやはり阪神地区。阪神が勝てば盛り上がるのですが、この日は最終的には負けちゃいましたね。

さて、いきなりですが、書きたかったこと。結論から書くと、「やらない!という選択肢はある種の決断になるか」という疑問について考えてました。

なぜ、こんなことを考えてたか。人の決断に従うのは楽です。例え、失敗してもその人のせいにできる。けどそういうひとほど、嫌だって決断は自分でして、しかもその決断は早い。やらないことによる失敗は露呈しにくいから、わからない。結果、現状に甘んじてしまう。

自分が最近、やらないという結論に甘えすぎではないかと思い始めています。何かをやらないということは、今までと変わらないということであり、別にそれで死んでしまうわけではないから(向上もないけれど)たいして影響がない。だから、まぁいいかぁとなってしまう。しかし、時が経ち何も変わらないということは、”低下”を意味することに気がついているだろうか。

「ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊」という本を立ち読みしたのですが、この本自体は話が飛躍しすぎて、つまらないですが、一点だけ”そうかもなぁ”と思うところがありました。それは、晩婚化、低出生率について。成熟できないカップルの甘い考えが、結局、なかなか結婚できない、結婚しても子供を作らないという結論に達するということ。それは、何もしないということであり、それはそれで経済的にも余裕が出来るし、実はその方が楽に生活できる。ちょっと本の内容とは違うけれど、僕はそう読んだ。(雅子様の話もあるし、この話題は実はタブーなのかも知れませんが、ポイントはわかってください)

失敗するという経験は、その前にある決断を行ったという確固たる証拠であり、偉大なことなんだなぁと思う今日この頃です。そういえば、僕は”失敗した”という経験をあまりしていない気がします。告白して失恋したくらいですか(^_^;)