飛び石連休


あぁなんで一枚だけ(プリンタの用紙入れに)逆さに入っているんだよぉ、なんて叫びながら年賀状づくりに勤しんでいる今日この頃です。

昨年、ふと思い立って年賀状を買ったのはいいけれど、もともとこういうのが苦手なくせに年賀状をもらうのは好きだから、書かないともらえないということでがんばって作っている次第です(^_^;)。住所不定の人も特定しようと思いましたが、それはもう年末年始の時間のある時にして、とりあえず分かっている人だけでも書いてしまわないともう間に合いません。今年は40枚ちょっとです。

ところで、今日の職場では、飛び石連休の合間という理由か早く帰る人が多かった。加えて時は忘年会シーズン。今年も忘年会は課とバレー部の2つだけです。あぁ大学の同期とかと飲みたいなぁと思ったけれど、そういえば今月初めに飲んだジャン。なんと遠い昔に感じることだろう。

それから、松本清張著「小説帝銀事件」を読み終えました。非常に読みづらかったですが、冤罪の怖さが少しだけ分かった気がしました。

12人もの人を毒殺した残虐な殺人鬼として、平沢貞通が重要参考人として連行される。銀行に残された名刺、生き残った人の証言、平沢自身の証言(自白)、平沢の事件当日のアリバイ、などが詳細に明らかにされつつ、彼が冤罪であった可能性を示唆する半小説となっている。これは現代の、のほほんとした推理作家さんには書けないだろうなぁ。読むのがしんどかった。

そして、今でもその冤罪を示そうと活動が行われているそうです。(参考:http://www.gasho.net/teigin-case/

それにしても裁判とは恐ろしい。似ているとされただけで十分な証拠として取り上げられてしまうとは。事件当日のアリバイだって、その時間に事件現場にいることができない可能性の方が大きいのに、少しでも可能性があればクロとされていまう。それから、本人の自白が意外に信用できないとするのも、なるほどですね。

裁判の目的は、ある人の罪を決めるモノではなく、事件を明らかにすること、その上で罪を償わせるというのが目的なんですよね。

まぁもっともそれが検事さんの仕事なのかもしれないですけどね。冤罪の不安とかなかったのでしょうか。

ちょっと法律に興味が湧いてきました。だからといって六法全書を読もうとは思わないですけどね。法律は知らない人ほど損をするといいますし。