納棺夫日記 〜宗教と死がテーマの本でした

納棺夫日記 (文春文庫)
青木 新門
文藝春秋
売り上げランキング: 683
おすすめ度の平均: 4.5
4 死を取り巻く現場から見つめた「生と死」
1 不愉快
4 市井において死を真正面から見つめること
5 ニンゲンは犬に食われるほど自由だ
1 宗教書なのか


僕は福井の北陸高等学校出身です。

この高校は、学校のサイトから引用すると「仏教の教え、特に浄土真宗(親鸞聖人)の教えを建学の精神とします。」ということで、仏教が科目として週に1時間ほどあり、季節ごとなどに仏教のイベントがある。もちろんその際には御経を読む。

結局、授業の内容はあまり覚えていないが、浄土真宗ではとにかく「南無阿弥陀仏」を唱えていればよいとのことだった。だれでも、天国にいけるという。その当時、そんなもんなのか、それでいいのかと不思議に思っていた。



そして、この本を読んで、ふとそのことを思い出し、親鸞聖人がその罪を背負ってくれるのだということを思い出した。そんなことを言っていた気がする。

けれど、なんというか御経を読んでいるとき(実際には読めなくて、聞いていただけだけど)なんだか荘厳な気分になっていたことを思い出した。



だから、この本の内容がわかるとか、そういうことが言いたいわけではないが、その死後の世界について、考えたことがあるという点において、少しだけ理解が深いような気がした。光という言葉が再三でてくるが、確かに季節の行事でも光がテーマだった気もする。



僕の母方の祖父が亡くなったとき、お盆でさえなかなか集まらない親戚一同が集まったところで、お坊さんが「おじいちゃんがみんなを集めてくれた」と説教していたことを思い出しました。お葬式というのは、そういう場なんだと。

そのときも親戚のおじさんが、毎日御経を読んだり、毎日みんなが集まって、おじいちゃんが死んだのは悲しかったけれど、楽しかった覚えがある。

別に死は悲しいものだけど、忌み嫌うものではないと思う。そんなにみんな避けていたかなぁと思いつつ、僕も死ぬことなんて、今現在はみじんも思っていない。



なにがいいたいのか、わからなくなってきたけれど、結局はときどき、先に逝く祖父などの力を借りて、死のことを考えるきっかけが与えられるのだと思う。それでいいんじゃないかな。